パソコンと古文書解読 |
第24話 翻刻ということ |
史料集などの凡例をみると、「刊行にあたっては、できるだけ底本に忠実であるようにつとめたが、……」の文言をみます。「底本に忠実」とは何かを考えてみました。
右図のような古文書があります。
「つゝいて見ゆる福岡の城楼は雲外に□(そび)へ、夕日の輝きてハ丹城霞の如く、瑞気は……」。
この文書を活字になおすとき困るのは、□に当てはまる、「頻」と「耳」を合わせた文字です。漢和辞典に、この文字は見当りません。幸いにも、ここではルビが付けてあるので、「聳」と書くべき所を「頻+耳」と誤って書いたことが知られます。文意から考えても、「聳」と断定してよいと思います。
問題は、この字をどう処理すればよいかということです。「原文のとおり」という大原則をそのまま適用するのなら、「頻+耳」という「字?」を外字エディタで作り、印刷すれば、表示できないことはありません。しかし、読者は頭をひねるでしょう。そこで、すくなくとも(ママ)と注記する必要があります。(聳か)を付記すれば親切な表記となります。
「原文のとおり」をもっと推し進めるのなら、「城楼」は「城樓」にします。「瑞気は」は「瑞氣盤」と表記することになります。こうなると、古文書に慣れている人でも、理解に苦しむことになります。
さらに極論すれば、原本をコピーしたものこそが、文字どおり「原文のとおり」であり、翻刻はしないという、変な結論になってしまいます。
手書きの古文書を活字になおすねらいは、一般的には、現代人に理解しやすい形に、最小限の「翻訳」をすることだと、私は考えています。古文書とはいえ同じ日本語ですから、外国語を翻訳するほどの変化はありませんが、「翻訳」ですから、「原文のとおり」になりませんし、また、してはいけないと思います。「氣」は新字体があるので「気」に、変体仮名の「盤」は「は」と表記すべきです。「頻+耳」は無視して「聳」にします。
書道の展覧会では「盤」の字をよく見かけます。「は」の字より「盤」の方が美しい(適当)と考えて使っているのでしょう。私にはサッパリ読めませんが、……。(「書いた本人だけしか読めない」という、キツイ冗談があるそうです)。