パソコンと古文書解読

第23話 文脈から読む

 

「個人データベース」作製のため、活字化された古文書をOCRにより文字化しています。
あまりにも誤変換が多いので、本を見ながら“校正”をします。意味を考えながら読むと、一字一句を照合しなくても、誤変換の個所がほぼ分ります。それは、「意味の通らない」個所です。意味の通らない個所の大部分はOCRの誤変換ですが、誤植・誤読もあるようです。訂正すると、
ストンと腑に落ちます。

下の引用は、享保三年(1718)広島藩の百姓一揆に関する資料です。3月、広島藩北東部から起った百姓一揆は、30万人が蜂起して全藩に波及する大一揆となりました。

この資料によると、一揆勢は郡単位に組織され、地方支配に関係する諸役人の「家ヲ潰し」、一揆に加わらなければ百姓家でも潰すという廻状を出しました。参加する者の一人もない仁方村では、心配して「惣百姓鬮入ニして」、クジに当った34人が、村の印旗(瓢箪に盃)を立て一揆勢に合流します。阿賀村では、頭庄屋の門長屋を潰し、本家の柱を手斧で伐り懸けたところ、出家たちが柱を抱きかかえ、「これは拙僧にくだされ」と頼むので、柱に疵をつける程度でそこを出発。そうこうするうち、百姓中の使として飛脚が参り、「願の筋は埒明したので、惣百姓は村に引き取るよう」との連絡があり、仁方村に帰村しました。

「享保三戌年春芸備御領分之内東郡百姓壱郡宛徒党して、一郡限り廻り御所務役人・頭庄屋・惣山守等之家ヲ潰し候、百姓共罷出不申候得、其家をも潰候段、何レ之村より出候共不知廻状ヲ出候故、無拠村々より百姓共罷出ル、……志和・西条辺より竹原筋へ夫より浦辺へ移候様子追々廻文到来候得、仁方村よりハ壱人も罷出候者無之、左様ニ而者無程奥在之百姓罷越村中百姓家ヲ破却可致様子故、仁方村惣百姓鬮入ニして鬮当り之者三拾四人戌三月廿六日当所出立案内として竹原筋へ向ケ罷出ル、尤村毎之印立候様ニと廻文出候故、仁方村之印ニてひやうたんニ盃の画書をたて、右三拾四人の者参候処、最早徒党百姓三津村へ入込……、同廿八日朝五ツ時仁方村出立阿賀村へ向参、頭庄屋兵左衛門殿方之門長屋ヲ潰し、本家之柱を手斧ニ伐り懸候処、出家多ク有所故僧分之者不残入込柱壱本宛抱候、是拙僧へり候へ抔と断り候ニ付、柱ニ疵付候迄ニ同所出立、……同廿九日朝同所出立乃美尾村へ罷越居候処、四日市より百姓中の使として飛脚参願筋埒明候間、惣百姓在へ引取可申と申来由ニ仁方村より付参候百姓共罷帰候」

引用文中、色つきの4個所が意味の通らない個所です。いつもなら、「意味不明。誤植・誤読か。それとも、理解力不足か」と諦めるところですが、幸いなことに、原資料のコピーを見ることができました。

百姓共罷出不申候得、其家をも潰候」は、原資料では「百姓共罷出不申候得、其家をも潰候」と書かれていました。「百姓共が一揆に参加しなくても、家を潰」されてはかないません。「参加しなければ、家を潰す」となると、一揆に加わらないと大変なことになります。

ひやうたんニ盃の画書」は、「ひやうたんニ盃の画書」でした。

僧分之者不残入込柱壱本宛抱候、是拙僧へり候へ抔と断り候」は、「僧分之者不残入込柱壱本宛抱候、是拙僧へり候へ抔と断り候」でした。「り候へ」では意味不明です。「り候へ」で、ストンと腑に落ちたことでした。

最後の、「惣百姓在へ引取可申」は一読しただけでは気づきませんでした。照合してはじめて「惣百姓在へ引取可申」と分りました。

読んでみて、意味不明の所があれば、誤植・誤読の可能性があります。疑問を感じても、普通は原資料に当ることは不可能です。それだけに、古文書を解読して発表する人は、文意を取りながら読んで欲しいと思います。

 

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